前回のブログでは、プライバシー保護のための標準化のソリューションと、それに伴う問題点について取り上げました。その記事の終わり辺りで、車両と交通弱者(VRU)との間のプライバシー保護に関する違いについてはまだ未解決の課題が残されていると簡単に触れました。
実際、VRUの実現に関する課題はプライバシーの側面だけにとどまりません。このブログでは、VRUに関する複数の問題点について述べます。
まず、語彙の定義です。VRU(「脆弱な道路利用者」=いわゆる「交通弱者」)という語彙は、事故が発生した際に車両よりも負傷しやすい傾向にあることから付けられました。これに関する標準規格12によると、これには歩行者、自転車(通常の自転車および電動自転車)、電動キックボード、原付バイク、オートバイ、道路作業員、さらには動物など、車両以外の道路利用者が含まれます。
VRUメッセージの目的
VRUに関するメッセージはVRU Awareness Messages (VAM)と呼ばれます。VAMメッセージの目的は、周辺の車両に対し「交通弱者」(VRU)の存在やその動きを通知・警告することです。車両の視点からVRUを正確かつ迅速に検知することは、車両だけでなくVRUにとっても、より安全な道路環境の実現につながります。これにより、事故からVRUを守り、その安全性を高めることにつながります。VRUのユースケースはETSI ITS仕様書TR 103 300-1に記載されています。
VRUのプライバシー保護
VRU(交通弱者の安全)と車両との大きな違いはユーザーとデバイスの関係性の違いにあります。車両の場合、車両とその運転手・所有者の間には明確な関係性は比較的薄いものです。個人所有の乗用車であれば、その関係性は確かに明確です。したがって、そうした運転手や所有者を保護することには明確な意味があります。しかし、バスやタクシーなどの他の種類の車両については、固定された関係性はありません。バスには複数の乗客が乗るものであり、乗降によって乗客は時間とともに変わり、これはタクシーについても同様です。バスやタクシーの運転手も、シフトの交代に伴い定期的に入れ替わります。では、こうした種類の車両において、私たちは誰のプライバシーを保護しているのでしょうか?
自動車とは対照的に、VRU(「交通弱者」)については、一部のVRUの種類を除いて、スマホがそのデバイスとして使用されることが暗黙の前提となっています。例外としては、専用のVRUデバイスが組み込まれている自転車や電動キックボードなどが挙げられます。しかし、歩行者について言えば、スマホが使われるであろうことはとなるのは自然の成り行きでしょう。今日では誰もがスマホを使って、電話をかけたり、メールをチェックしたり、友人とチャットしたり、インターネットを閲覧したり、ゲームをしたり、音楽を聴いたり、支払いをしたりなど、あらゆることにスマホを利用しているという現実があります。そこにV2Xメッセージを送受信する「アプリ」がもう一つ加わるのは、ごく自然なことだと思います。ETSIの用語では、これをVRU認識メッセージ(VAM)と呼びます34 、SAEではパーソナルセーフティーメッセージ(PSM)と呼ばれます5。
この仮定が正しければ、あなたのスマホを使うのはあなただけですから、ユーザーとデバイスは完全に1対1の関係となります。家族と車を共有することはあっても、自分のスマホを人と共有することはありません。となると、それらのVRU(歩行者・自転車利用者)に対するプライバシー保護は、自動車よりもはるかに厳格で厳重なものにならざるを得ないという結論に達します。本質的には、位置情報の追跡などにおいて、スマホ利用と同等のプライバシー保護レベルとなることになります。
VRUの動きの特徴、その1
VRUには、上記に述べたプライバシー上の問題があるだけでなく、車両とは大きく異なるもう一つの点がその物理的特性にあります。車両は基本的にその大部分が鉄でできている大きな物体であり、一般的な乗用車でも重量は1トンを軽く超えます。大型トラックのようなより大きい車両の場合、その重量は数トンを超えます。一度動き出してしまうと、停止や方向転換などは容易ではありません。車両の運動量が大きいため、機敏な動きは難しくなります。
これとは対照的に、人間(歩行者)の慣性ははるかに低いという特徴があります。突然止まったり、素早く方向を変えたり、振り返って瞬時に反対方向へ歩き始めたりすることは容易です。車両に比べて人間の慣性は小さいため、人の動きははるかに予測しにくくなります。たとえVAMメッセージが歩行者の動きを周囲の車両に伝えるメッセージを送信できたとしても、その状態がたとえ短時間であっても維持されるという保証はありません。先ほど、動物もVRUの一員であると述べました。猫や犬を例に挙げてみましょう。 🙂 彼らの敏捷性は人間よりもさらに高く、その行動ははるかに予測が困難ものです。
こうした状況を考慮した上で、VAMメッセージがVRUの動きを正確かつ確実に反映させるにはどうすればよいのでしょうか。これは大きな課題です。さもなくばVAMメッセージは単なる「張子の虎」に過ぎない、という結果になってしまいます。更にVAMメッセージがVRUの実際の動きを正確に反映していないような場合には、誤った情報が車両を誤った認識をさせてしまうため、かえって害を及ぼす可能性さえあります。
VRUの動きの特徴、その2
VRUのもう一つの特徴としては、その状態が変化しうるということです。具体的には、次のようなことです。歩行者が道路脇のバス停に立っているとします。数分後、バスがバス停に到着し、その歩行者はバスに乗り込みます。ここでその人はもはや「歩行者」ではなく、バスの「乗客」となります。また、バスが目的地のバス停に到着すると、その「乗客」はバスを降りて歩き始めます。これで、この「乗客」は再び「歩行者」に戻る、ということになります。周囲の車両から見て、その人がバスの中にいるか外にいるかによって、歩行者の安全面において大きな違いが生じることは言うまでもありません。
ここで問題となるのは、こうした「状態の変化」がVAMメッセージにどのように正確に反映されるかということです。スマホに内蔵されたモーションセンサーが利用されることは当然予想されます。しかし、赤信号で停車中のバスに乗っている「乗客」と、道路脇に立っている「歩行者」は、どちらも動いていませんが、その「状態」は異なります。前者の場合、その人は依然として「乗客」であり、後者の場合は「歩行者」です。止まっている「乗客」と止まっている「歩行者」、これらを区別する必要があります。自転車に乗っている人(「サイクリスト」)と路肩で自転車を押している人(「歩行者」)で、その状態を切り替える場合にも、同様のことが当てはまります。これは現実的に機能するのでしょうか?規格ではユースケースやメッセージの定義が定められていますが、こうした側面については十分に検討されていないような印象を受けます。
オートバイは車両はVRUか?
このブログの冒頭で、オートバイはVRUの一種であると述べました。この定義によれば、オートバイは「車両」であると同時に「VRU」でもあります。これは、ある条件下では「車両」であり、別の条件下では「VRU」であることを意味するのでしょうか?もしそうだとすれば、どのような状況下でどのように切り替わるのでしょうか?オートバイは交通の流れの中で他の車両に混じって移動するため、VRUというよりは「車両」に近いように思えます(ただし事故に遭った際には、ライダーはより怪我をしやすいので「交通弱者」の範疇に入るのでは、と推察します)。
しかし、ここでさらに問題なのは、オートバイが転倒し、道路上でライダーとバイクが左右に離れてしまった場合、VAMの観点からはこれらが2つの独立した「存在」となり、それぞれ別々のVAMメッセージを送信し始めなければならないという点です。つまり、ライダー(人間)とバイク(物体)という2つの別の「物体」から発せられるメッセージになります。この動作の理由としては(私の理解では)、道路上に2つの「物体」が離れて(片側にライダー、もう片側にバイク)存在している状況を、付近の車両に認識させる必要があることだからあろうと思います。例えば、後続車両が衝突を避けられない状況において、どちらに衝突するかという迅速な判断を下さなければいけない、という必要性があり、これらの「2つ」のメッセージがその判断に重要なものとなります。怪我を防ぎ、人命を救うという観点からすれば、どちらを選ぶべきかの答えは自明です。
この例では2つのデバイスが関与していることを意味します。1つはライダーが装着するもので、もう1つはバイクに固定されたものです。そして、ライダーがオートバイに乗っている間、および道路上で転倒してオートバイから投げ出された際に、これらのデバイス間の「一体化」と「分離」が適切に行われる必要があることを意味します。もしこれら2つのデバイスがBluetoothのような無線技術によって接続されていると仮定すると、この「一体化」と「分離」が意図した通りに機能するかどうかは疑わしいと考えます。理由としては、Bluetoothの通信距離はバイクが転倒しライダーが車体から投げ出される際のこの2者間の距離よりもはるかに長いためです。
これを実現するには、もっと物理的・機械的な方法が必要になると思います。スポーツジムのトレッドミルによく見られる、磁石付きの赤い紐が思い浮かびます。シャツにその紐を留めておくと、バランスを崩してトレッドミルから落ちた瞬間に磁石が外れ、マシンが即座に停止する、という仕組みです。
VRUの実装は如何に?
これはこのポストでおそらく最も根本的な問いになるかもしれません。この点について議論するには、まずV2X通信の基盤となる無線技術について確認する必要があります。V2Xの規格には、Dedicated Short Range Communications(DSRC)とセルラーV2X(C-V2X)の2つがあります。前者はIEEEによって定義されるWi-Fi(IEEE 802.11p)を利用し、C-V2Xは4Gや5Gなどの移動体通信技術を規定する標準化団体(SDO)である第3世代パートナーシッププロジェクト(3GPP)によって標準化されています。
後者(C-V2X)の場合、デバイス間の直接通信インターフェースは、モバイルシステムアーキテクチャの観点からは「PC5」(システム参照ポイントの名称)、また無線アクセス技術の観点からは「サイドリンク」と呼ばれます。対応するモバイルシステムの世代に応じて、LTE(4G)ベース(LTE C-V2X)と5Gベース(5G C-V2X)の2つのバリエーションがあります。
前述の通り、ここにはVRU(特に歩行者)がこの目的でスマートフォンを利用するという暗黙の前提があります。現在、消費者の間でのスマホの普及を考えれば、VRU専用の端末のような特定用途向けの端末を一般消費者が購入・使用する可能性はまずないであろうと考えます。その昔はウォークマンなどの音楽再生専用のデバイスもありましたが、今どきはそのような特定用途のデバイスを買う人は(一部のマニアを除いて)まずいないでしょう。
より根本的な問題・疑問へ
ここでの疑問は以下のようなものとなります。一般消費者が使うスマホはC-V2XのPC5/サイドリンク・インターフェースに対応するのでしょうか? 私の推測では、答えは「ノー」だと思います。PC5/サイドリンクは元々パブリックセーフティー向けに標準化されたものである、という背景があり6、その後、V2X向けにその機能が再利用されることになったという背景があります。(QualcommのSnapdragonのような)ベースバンドプロセッサは、車載OBUなどの特定用途向け製品においてのみPC5/サイドリンクに対応しているのではと推察し、一般的なスマホ製品がPC5/サイドリンクに対応したベースバンドプロセッサを採用するかどうかは、極めて疑わしいと考えます7。
私の推測が間違っていなければ、通常のスマホがPC5/サイドリンクに対応するようにはならないでしょう。であれば、C-V2XベースのVRUは単なる概念のみの「張子の虎」状態であり、それ以上でもそれ以下でもありません。となれば、どうしてもスマホでVRU機能を実装するのであれば、DSRCが唯一の実用的な選択肢となると思われます8。
これは、C-V2Xが主流となっている米国や中国などの状況とは相いれない状況です。そうなると、異なる目的のために2つのV2Xの通信技術が共存しなければならない状況が生じることになります。これはどのように機能するのでしょうか?周波数帯の割り当てや、干渉を起こさずに2つのアクセス技術が共存することは可能なのでしょうか?これはまさに、各国の当局が様々な理由から技術の統一を図ることで回避しようとしてきた問題そのものです。これまで、DSRCとC-V2Xの共存について論じた学術論文は存在しました。しかし実際には、技術的およびその他の様々な理由から、このような状況は実現不可能だと考える次第です。
終わりに
本ブログでは、VRUには様々な問題が存在することを述べました。これらの技術的な問題の一部は、技術的なこと以外の問題を引き起こす可能性があり、その結果、解決策がさらに不透明になる恐れがあると考えます。全体をまとめた私の見解としては、ひいき目に見てもVRUの導入と普及が成功する可能性は、かなり限定的なユースケースやサービスタイプに留まるものだと考えます。
本ブログでは、V2Xの「セキュリティ」面というよりは、むしろ「安全性」の側面に関するものになりました。しかし、V2Xサービス全体の整合性という観点からは、これは非常に重要な事柄であると思います。
VRUに関する重要な点はほぼほぼ網羅できたと思いますので、これに関する議論はここで一旦終わりにしたいと思います。次回の記事でどのトピックを取り上げるかはまだ決めていませんが、また何か面白いトピックについて書こうと思います。
- ETSI TR 103 300-1 V2.3.1 (2022-11) Intelligent Transport Systems (ITS); Vulnerable Road Users (VRU) awareness; Part 1: Use Cases definition; Release 2
- SAE J2735 V2X Communications Message Set Dictionary
- ETSI TS 103 300-2 V2.3.1 (2024-08)
Intelligent Transport Systems (ITS); Vulnerable Road Users (VRU) awareness; Part 2: Functional Architecture and Requirements definition; Release 2 - ETSI TS 103 300-3 V2.3.1 (2025-12) Intelligent Transport Systems (ITS); Vulnerable Road Users (VRU) awareness; Part 3: Specification of VRU awareness basic service; Release 2
- SAE, V2X Communications Message Set Dictionary 2022-11
- 公共安全LTE(PS-LTE)は、TETRAなどの旧世代の音声専用公共安全通信システム(いわゆる警察無線)に4G以降のブロードバンド機能を追加することで進化させたものとして規格化されたものであり、端末間での直接的なトランシーバー型のグループ通話機能は必須の機能とされていた、という背景があります。
- 主な理由としては、個々のユーザーが通信事業者の管理下(課金などの目的で)を離れてデバイス間の直接通信を行うようになる状況を、通信事業者が好まないからであろうと推測します。
- DSRCは、本質的に従来のWi-FiからAP選択のステップを省略した「簡略版」であり、これにより車両は道路上で遭遇する不特定かつ未知数の車両に対してV2Xメッセージを送信できるようになります。したがって、理論上は、VRU保護の目的で、スマートフォンのWi-Fiファームウェアを「アップグレード」し、その機能を外すことも理屈の上では可能かもしれません。ただし、スマホのベースバンドプロセッサ上のWi-Fiにおいてそれが実際に可能かどうかはまた別の問題です。